数年前のこと。
仕事関係の方から
急に電話がかかってきた。
すごく困っていることがあり、
至急、別のクライアントさんとの
顔合わせを調整してほしいとのことだった。
話を聞く限り、
それは早く動いた方がいい!という案件。
もちろんです!と快諾し、
ほかの仕事よりも優先順位を上げ、
急いで日程を調整した。
別のクライアントさんも協力してくださり、
決まった日時を
依頼主の方に電話でお伝えした。
しかし、
予定の時間になっても
その方は現れなかった。
電話をかけても繋がらない。
お忙しい方だから、
仕事が押してしまったのかな。
何かあったのかな。
30分ほど待ったが、
お会いすることはできず、
来てくださったクライアントさんに謝って
その日は解散した。
その後、ご本人から連絡があり、
待ち合わせ時刻が違っていたと聞いた。
私が伝え間違えたのか。
相手が聞き間違えたのか。
電話でのやり取りだったので、
今となっては確かめようがない。
時刻の認識が違っていた、
という話でやり取りは終わった。
でも、
私の中にはモヤモヤが残った。
このモヤモヤは、何だろう。
時間を間違えたこと?
顔合わせができなかったこと?
それもある。
でも、それだけではない。
急いで日程を調整したこと。
別の方にも予定を空けていただいたこと。
心配しながら待っていたこと。
そういった時間や気持ちにも、
少し、心を向けてほしかったのだと思う。
「調整してくれてありがとう」
「待たせてしまったね」
そんな一言があったら、
私の心は違っていたのかもしれない。
あぁ、そっか。
私は、
自分がかけた時間や気持ちを
大切に受け取ってほしかったんだ。
そして、
協力してくださった方の時間も。
そこまで気づいて、
ふと、自分に問いが向いた。
私はどうだろう。
誰かが私のために動いてくれた時、
その向こうにある時間や気持ちまで
受け取れているだろうか。
お願いしたことが叶うと、
嬉しくて、
つい結果ばかりに目が向いてしまう。
相手が動いてくれたことを
当たり前のように受け取ってしまう。
でも、その人は
何かの手を止めてくれたのかもしれない。
予定を組み直したり、
誰かに頭を下げたり、
私の知らないところで
気を配って動いてくれていたのかもしれない。
見えているのは、
その人がしてくれたことの
ほんの一部分。
全部を知ることはできなくても、
想像することはできる。
ありがとう。
助かったよ。
時間をとってくれて、ありがとう。
行き違いがあった時も、
どちらが正しかったかを確かめることと、
相手の時間や気持ちを大切にすることは、
一緒にできるはずだ。
あの時のモヤモヤは、
私が大切にしたいものを
教えてくれたのかもしれない。
誰かの誠意を、
当たり前にしない。
受け取ったものを、
ちゃんと言葉にして返せる私でありたい。