くすぐったい愛情表現

人を愛している自分が好き。
人から愛されている自分が好き。

「何言ってるんだ、こいつは?」
と思われる恐れも抱きながらも、本心なので口に出してみる。

私は小さい頃から「大好き」「愛してる」という言葉からほど遠い環境にいた。

父母から、祖父母から、姉から、これらの言葉を聞いた覚えがほぼない。

愛がなかったわけではない。
愛情はふんだんに注がれていた。

私が生きている世界は、両親、祖父母、親戚、まわりの沢山の大人たちから愛が注がれており、全身で感じていたのだ。

言葉ではなく在り方で与えられ、愛されるのが当たり前。

しあわせな環境だ。

しかし、「大好き」「愛してる」という言葉はなかった。

つまり「言葉」がなかったのである。

いつからだろう。
覚えていない。

気づいた時には、すでに、愛の言葉を言ってはいけないと思い込んでいた。

いや。
それ以前に、心の底から沸き出てくる「愛」を感じてはいけないと思い込んでいた。

自分と繋がってはいけない。
受け入れてもらえない。

小さいワタシが安全な世界に居続けるためには、表現してはいけなかった。

  • 好きだなぁ
  • かわいいなぁ
  • 愛おしいなぁ
  • キュンやわ

と声にする友人たちが、すごい輝いて見えた。
彼らはフツウに言葉にしている。
本当に好きなんだなぁって伝わってくる。
なんでこんなに、真っ直ぐなの?

「私〇〇君が好きなの。ゆみちゃんは?」
目を輝かせて聞く友人に、戸惑った気持ちを今でも覚えている。

好きな人?
よくわからないよ。
なんでそんなにルンルンしてるの?
楽しそうなの?

感情のままに表現する人たちが羨ましくて羨ましくて、次第にその強さが苦手になっていくワタシがいた。

いくら悩んでも、私の口からは表面的な愛の言葉しか出てこない。
まるで嘘をついているようでざわざわしていたんだ。

さらに、嘘をついていると思っていることすら言えなくて、孤独だった。

それでも、それなりに恋愛はして、結婚して、出産もした。

しあわせだなぁと感じていた。
本当にしあわせだなぁと感じている時間もあった。

しかし、また一つ、コンプレックスが出てきたのである。

本当に愛おしそうに子どもを愛でる、まわりのパパママ達。

「子どもがかわいくて仕方がない」
「目に入れても痛くない」
と心の底から表現している。

え。子どもってそんなに可愛いもの??

私はどうなんだろう?

我が子も可愛い。
愛おしい。
なによりも第一優先で守ってあげたい。

でも、なんだか違う。
何が違う?

わかった!
そうか!

かわいい・愛おしいという感情を全力で味わってなかったんだ!

  • おむつ変えてあげなくちゃ
  • ご飯食べさせなくちゃ
  • 規則正しい生活をさせてあげなくちゃ

愛を表現するために、行動で示さなくちゃいけなかった。

役割の裏に、愛があった。

行動しない私は親であることに値しないと思い込んでいた。

でも本当は、違う。

私の根本には愛がある。

目の前の赤ちゃんが、ただただ可愛い。

この手料理が、ただただ美味しい。

大好きな人といる時間が、ただただしあわせ。

評価判断や損得は手放して、今ここに湧き起こる感情をただただ感じること。

そして、恐れず、素直に表現してみること。

私はもう大人だから、自分で愛のある環境を創り出すことができる。

自分で自分を守ることができるし、自分で自分を育てることもできるんだ。

そうしたら、私のまわりにはどれだけ愛で溢れているのか、しあわせなのかを噛み締められるようになった。

それも、日常で。
ただのありふれた日常で。

自然と、別れた元夫にも感謝を感じられるようになった。

新しいパートナーにも、愛と感謝を伝えられるようになった。

純粋に私が感じている思い。

大事にしてもいい。
大事にされてもいい。
愛されていい。
愛していい。

表現してもいい。
表現しなくてもいい。

どれも、本当の私で、感じていていいんだ。
目をつぶらなくていい。
嘘をつかなくていいんだ!

「愛してる」と言われてくすぐったく感じている私も、はにかんで「私も」と言っている私も、素敵。

それはそれで、いいのである。
誰かと比べるものではないが、35歳にしてようやく知った、私を大事にする方法だ。

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