【コラム】こぼれたアメ

「片づけなさい!」

母によく怒られていた。

自分の部屋はモノで溢れ、
床にも、机にも、ベッドにも、
あらゆるモノが散乱していた。
汚部屋だ。

どれも必要な気がして、捨てられない。

子どもが自分で管理できる以上のモノを持ち、
どれも大事に抱え込もうとしてできず、
もがいていた。

まるで、
溢れるほどのアメ玉を
手に乗せようとしている子どものようだ。

想像してみてほしい。

ここに、
4歳の保育園児と10歳の小学生がいる。

二人の子どもが手を合わせて
「飴ちょうだい」とお願いしても、
手に乗るアメの量が違うのは明確だ。

誰かの好意でたくさんもらったアメは、
手のひら以上の量は乗らないし、
床にこぼれてしまう。

そもそも食べきれない。

床にこぼれたアメは、食べたくない。

床にこぼされたアメは、涙を流して悲しんでいるだろう。

このように、
私たちが手に持てるモノの量も同じだ。

立派な大人であっても、
一人の人間が大事に管理できる量はそれほど多くない。

そして一人ひとり、適切な量は違うのだ。

昔の私には必要だったけれど、今の私に必要か?

未来の私は必要か?

未来なんて、わからない。
持ち続けるだけでモノも劣化する。

それならば、
新鮮なうちに大事にしてくれる別の人に授けよう。

そうやって、
一つひとつのモノと向き合ってみるようになった。

彼らの声を聞き、
私の声を聞き、
お互いにとってベストな選択を探してみるのだ。

基準はシンプル。
「今ここ」である。

彼らと心地よく生活する。

大事に扱われ、大事に思われる。

汚部屋に新鮮な空気が行き渡る日がやってきた。

「部屋がキレイって気持ちいいね」

どこからか、モノたちの声が聞こえてくる。

モノと私の相思相愛の関係、ここにあり。

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